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カノンが聞こえる

 2016.1.19

懐かしいメロディーだ。しかし、すぐには思い出せなかった。先ほどどこからか流れてきたそれが三木露風の

作詞だか作曲だかの「赤とんぼ」であることに気付いたのは大ちゃんスペシャルを食べている最中だった。

そうかここは龍野なのだと数学の難しい問題が解けたような感動を味わったのだった。

だから僕は贅沢をしてビールを飲むことにした。

女将はいつもお世話になっておりますとビール瓶と縁にキリンレモンと印字されたグラスを持ってきた。懐かしい。

「女将さんビールは取り止めや。まだ栓は抜いてないやろ。日本酒にしてぇな。このコップ見たら日本酒にしとうなったわい」

「ハイハァイ お客さん、時々お越しいただいておりますが龍野の方ですか」

「いや違うで、上郡や。田舎や。まぁここも田舎やけどな」

これが精いっぱいの上郡への擁護だった。女将といくらかのつまらない話をして、ほろ酔い気分の僕は赤とんぼを

口遊みながら朽ちた城下町を歩いた。旧脇坂藩の城下町は当時の町割りをそのままにして細い路地を迷路に作り上げていた。

建物は傾き、それでも建ち続けている重厚な街並みだった。僕は薄着を後悔しながら歩いた。あれはこの町にいるのだ。

そして今日、あれに会うためにやってきたのだ。特別に思い出すほどのことはないがいつもなにかの拍子に頭を擡げるのだった。

それは決まってこんな寒い季節の夕暮れだった。

いくらもない距離のはずだがずいぶん遠くに感じられた。夕暮れは知らない町になっていた。地元の誰に会うこともない。

寒さのせいだけでもなく町は静まり返っていた。軒先に下げ残った風鈴に北風が吹いた。行き止まりかと思えるような小道にあれの住まいの入り口があった。

格子戸にガラスをはめ込んだような古い引き戸だった。家自体が古いのだから戸が古いのは当たり前なのだが、長い年月にできた

柱との隙があれの今を教えてくれているような気がした。軒先の自転車のチェーンは錆びている。

二本立った田中信一商店のガスボンベが冷たい光を吸っていた。一瞬の躊躇のあと手に力を注いだ。軋んだ戸は重かった。

二度三度引く手の位置を上に下に変えながらやっと四度目に動いた。

「やっと来たね」

紺色のセーターの胸の膨らみが熱い郷愁を誘った。玄関を入ると真っすぐに中庭に抜けられるのだろう作りは手入れさえしていれば情緒ある町家だった。

こんなところになぜ越してきたのだろうか。そんなことも聞いてみたいと思った。

 通された玄関横の部屋は暖かかった。内心良かったと思った。建物同様、僕の懐同様に寒いと気分が滅入ってしまう。

「ねぇ飲む?」

あれは僕が酒飲みであることを知っている。それよりも本人が酒飲みである。

「さっき赤とんぼを聴きながら飲んでたんやけどな。熱燗が欲しいな。赤でもええけど」

あれは赤ワインが好きだ。ひとりで一本を干してしまうのだから。

「あの頃はよく飲んだよね。何年になる?」

あれはそれでも僕を歓迎してくれているのだ。なんとなく会わなくなって、そのうち互いに結婚して連絡を取り合うこともなかった。

「わからんな。二十年くらいかもな」

あれは結婚後一年もしないうちに別れていたのだ。知ってはいたが深入りはしたくなかった。

僕自身の生活がということではなかったが曲がりなりにも結婚した女、との分別があった。

「じゃぁ熱燗ね。ごぼてん焼いて食べようね」

この気さくさは当時のままだ。

「あとはおにぎりね。貧乏で何もないから」と笑った。短い髪を後ろに結わいているだけの笑顔だ。この笑顔が好きだった。

いや、今も好きなのだと改めて思った。セーターの膨らみ。ちょっとだぶついたブルージーンズ。全然変わっていない。

小説家を夢見ながら深夜まで営業している弁当屋で働いていたころと何も変わっていない。どうやって僕らは知り合ったのだったか。

熱燗を湯飲み茶わんで飲みながら近況を報告しあった。姫路の同人誌で今も書き続けていること。

町工場の事務員兼作業員をパートタイムでやっていること。僕は鉄工所で日がな一日を潰していること。互いに貧乏なことを認め合って笑った。

「なんでこの町に引っ越してきたん?」

僕はやっとそのことを質問した。なにかあるように思えて、それに重大な何かが含まれているように思ったからだった。でも答えは簡単だった。

「えっ、勤め先がこの町なんよ。それにここのほうが家賃が安くて広いしね」

「知らなかった。この町で働いていたんか」

「私のこと全然知らなかったのね。もう三年くらいになるけど。連絡してなかったけど、それでもどこかで聞いて知っているかと思ってたよ。

  私はあなたのことは知ってたよ。けんかして会社辞めたんでしょ。そこそこ出世してたのに」

「そこそこだったから余計にね」

僕らは笑った。笑うことがつまらない話を深く思い出させない方法だと互いに知っていたのだ。

 寒くはなかった。熱燗も赤ワインもたっぷりと飲んだ。慣れ親しんだ互いの身体は緩んではいたが骨格は同じだった。

廻した腕の在処も顎の下にある小さな形のいい頭も当時のままだった。手が固くなったねとあれは言った。ペンチダコだと説明した。

いいねとあれは言った。右手だけだと僕は言った。ひとりで大丈夫なんかと僕は問うた。どうして?いてくれるの?とあれは顔を上げ、だめよと僕の一部を握った。

 つけっぱなしのストーブの炎が部屋を赤く染めていた。時々、風が建て付けの悪い玄関戸を鳴らした。ここに鉄の灯りをひとつ作ってやろう。

いやふたつだな。ひとつはこの部屋に、もうひとつは中庭に灯してやろう。しかし、そんなことをするためにはまたここに来ることになってしまう。

また以前のようなことの繰り返しになってしまうかもしれない。でも僕はそれが悪いことではないと思っている。

高みへと強く願いながらも禁欲的な日々から解放されて厭世的に落ちて行くことに大きな抵抗は感じないだろうとも思うのだった。

まるでこの地、龍野の町の朽ちて行くトタンの錆壁の美しさのように。しかしそれは若き日の延長であって今の僕が執るべき道ではないことも知っているのだ。

今日だけ、今夜だけだと言い聞かせながら僕はかつての僕のように何度も愛し続けるのだった。

そうしてあれもまたかつてのあれのように僕の下となり上となりストーブの炎に赤く染まりながら揺れ続けていた。

 早朝のコンビニに人は疎らだった。百円のコーヒーを頼んだ。このまま帰ろうと思った。

あれには悪いと思いながらも何が善で何が悪なのかもわからなくなっていたのだ。このまま時間を過ごしてどうなることでもないのだ。

朝食を一緒に摂って、それもいいがそのあとはどうするのだ。一夜再会しただけなのだ。順不同に並べられていた古い写真はほぼ整理がついたのだと思った。

紙コップを受け取り、千円札を渡した。

「千円からお預かりします」

変な日本語を理解しながら釣りを受け取ろうとして僕は何気に自分の手を見た。店員に差し出した大きな手だ。これが僕の手なんだ。

固くなったねとあれが言った今の僕の手なのだ。お釣りを受け取りながらも僕は僕の手を見ていた。

店内に聞き覚えのある曲が流れていた。パッヘルベルのカノンだ。あれとこの曲を何度も聴いた。冬の街中ではよく耳にする曲だ。

主旋律が二小節ずつ遅れて追いかけてくるフーガ風の美しい曲だ。あれもこの曲が大好きだと言った。

そうだった。カノンが僕らを巡り合わせたのだった。並べられた古い写真の最後の一枚の置き場所が分かったように思った。

西の町でオルゴールを買ったのは僕だった。ゼンマイをギリギリと巻くと小さなドラムが回って音律のピンを弾く。

宙では小さな音だけれど、どこかに添わせると共鳴して大きく鳴り響くのだ。そうして僕は深夜の弁当屋で働いていたあれに出会った。

僕はうどんを食べに寄ったのだった。客は誰もいなかったから酔っぱらっていた僕はあれにオルゴールを見せた。

何の曲かとあれは聞いた。ゼンマイを巻き聞かせた。聞こえないと言うからカウンターに添わせた。音は大きくなった。

カノンだとあれはすぐに応えた。次の日も僕はうどんを食べに行った。

 あれから二十年ほどにもなるのだ。僕は僕の手を見ながら紙コップのコーヒーを飲んだ。

菓子と珈琲 朔はまだ開店前で大きな扉は閉じられたままだった。もし次に会うことがあればここにしようと思った。

朔には何度か行ったことがあった。あれの家には行かないほうがいい。

会うことは避けられないだろうけれど僕は僕のこの手をもっと固くしなければならないのだ。

古い写真の整理はついたのだ。あれも僕も遅れながらも夢に見た道を歩まなければならないのだ。

自分で見据えた道なのだ。そうするしか方法がないのだ。あれにはあとでメールでもしようと思った。

川沿いの道は寒かった。僕は僕の手のひらを擦り合わせながら灯りのデザインを考えていた。

 

 

平成二十八年一月十九日

寂鉄青ゐ

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