サイゴンの雪

(2016.1.24改題)

 

 フィニヨンは雪を見たことがなかった。だから日本へ連れて行ってやるとテツヲに誘われたとき、冬がいいと思った。

年間を通じて30度以上もあるサイゴンの気温しか知らないから日本の冬がどんな感じなのかわからなかった。

雪が積もって辺り一面が真っ白になっている日本の風景を3階の部屋で何回か観たことがあった。

 

 サイゴン川の畔で初めてテツヲに会った夜のことをよく覚えている。日本人だとすぐにわかったが、観光客なのか長期滞在者なのか区別はつかなかった。

友人だろう何人かと一緒に歩いていたテツヲだったが、彼だけは少し離れて川を覗き込んだりベンチに座ったりして退屈しているようだった。

フィニヨンもその夜は退屈していた。客が付かないのだ。もう歳なんだと商売替えを考えるこの頃だった。

まだ30歳になったばかりだったが周りのストリートたちは10代なのだから比べられれば勝ち目はなかった。

テツヲは友人たちに手を振りながら日本語でなにか言っている。きっと「お前たちだけで行けよ」のようなことを言っていたのだろうと思った。

友人たちも手を振り、テツヲは河畔のベンチに残って煙草を吸っていた。

フィニヨンも紙袋からヒマワリの種をひとつずつ取り出し前歯でコリコリとリスのように食べながらサイゴン川を往来する外資系ホテルの

電灯に飾りたてられた屋形船を眺めていた。

フィニヨンは少し迷いながらテツヲに声を掛けてみることにした。言葉が通じなければヒマワリの種を一緒に食べればいいのだ。

どうせ、今夜はだめと決めてしまったのだから。

 

 テツヲは友人たちと毎晩のように飲み歩いていたから睡眠不足と連日の暑さで疲れ切っていた。サイゴンの夜はもう何回目だろう。

今夜はぐっすりと眠って明日はモーターボートでメコンデルタの町まで下ってみようかと考えていた。

浮草に引っ掛からないかが気になるけど誰かを雇えばいいと思っていた。10万ドンも渡せば一日付き合ってくれることだろう。

明日の朝決めればいいとぼんやりと思った。煙草をサンダルの足で揉み消してすぐそこへ放り投げた。

日本では絶対にやらないことだったが、サイゴンでは道に捨てないと怒られるのだ。

掃除する人の仕事がなくなるとの理由だから外国は面白いといつもテツヲは夢ばかりを見ていた。

サイゴン川から流れ来る生暖かい風が気持ちよかった。

 

「ハァイ コンバンハ」

テツヲは驚いた。小柄なベトナム女性が目の前に立っている。

「ハァイ」

テツヲは挨拶を返したが何なのかが分からなかった。周りを見渡したがテツヲの仲間も、このベトナム女性の仲間もいそうになかった。

「イイ?スワッテ」

「アア イイヨ」

「ヨカッタ コトバガワカルノネ」

「イヤ スコシダケダ キミハダレダ?」

「フィニヨン コフィーノフィ フィニヨン アナタニホンジン?」

会話はベトナム語と英語と日本語が入り乱れて通じているのかどうかが分からなかったがなんとか互いの意思は伝わっているようだった。

フィニヨンはきれいな女性だった。街中に立っている女性のけばけばしさに比べると安らぎを覚えてしまうほどだった。

「ワタシトアソブ?」

「?...ナンダッテ?」

「イイヨ ********」

フィニヨンは何かを呟いて黙ってしまった。彼女は紙袋を差し出し、ベトナム語を呟きながら中の何かを食べた。

「コレハナニ?」

「ヒマワリノタネ コウヤッテタテニシテ マエバデカムノ」

「ヒマワリ?」

「ソウ ヒオマワリノタネ オイシイデショ」

「アア オイシイネ」

テツヲはなんだか楽しくなった。フィニヨンも楽しんでいるようだった。アオザイではなく普通の日本人の若い女性のようにブルージーンズとTシャツ姿だった。

体の線のメリハリがテツヲを刺激した。日本ではこんなきれいな女性とこんな風になることはあり得なかった。

「サッキ ナンテイッタンダ?」

テツヲは聞いた。街娼だということはすぐにわかっていた。

「ワタシトアソブカトキイタノ」

「アレノコトダヨネ」

「ソウヨ アソブ?」

「ドウスレバイインダ?」

「コノサキニカフェガアルノ イッカイデオサケ ニカイデカラオケ サンカイデアソブ」

「イクラ?」

「アナタイイヒト サンジュウドル」

「ソンナニモッテナイヨ」

「イイヨ アナタ トモダチ ココデイイヨ」

「ゴメンヨ ビールカッテコヨウカ」

「フィニヨン ビールホシイ ワタシ カッテクル」

そのまま持って行かれてもいいつもりでテツヲは一万ドン札を渡した。

「タラナイヨ」

そうだった。二人分だかからこれでは足りないことに気付いて恥ずかしかった。でもフィニヨンは行こうとした。

「マッテ モウイチマイ」

フィニヨンは一万ドンを持って帰ろうとしたのだろうか。もしそうならさらに一万ドンを渡すなんて馬鹿げている。

でも少しの間を楽しませてくれたチップと考えればなんてことはないとも思った。

「アリガトウ」

フィニヨンは目をくりくりと廻して一万ドンを受け取った。

テツヲは突然の展開と今の手持ち無沙汰を、なんともこれが東南アジアなのだなと勝手に決めつけて煙草をくゆらせ、また放り投げた。

「ハイ バーバーバー」

フィニヨンはビールを4本持って戻ってきた。テツヲは彼女がお金を持ち去るのではないかなどと考えた自分を恥ずかしく思った。

「モッハイバッヨー」

二人はあまり冷えていないビールのプルタブを勢いよく引き開け乾杯した。

それからフィニヨンとはフランス名なのだと言う彼女の体の四分の一がそうなのだと知った。南ベトナムはフランス統治の時代があったのだ。

1975年の独立とはついこの前のことだ。テツヲは歴史をあまり知らなかったがサイゴンのパンが美味しいことは知っていた。

ついこの前までの悲しい出来事は彼女の心の中に深く潜んでいるのだ。おばあさん、そしてお母さんから半分ずつ彼女は引き継いできたのだろう。

「ネェ オイデヨ」

フィニヨンはカフェの三階に狭いが自分のスペースがあるのだと言った。

「アナタ トモダチ キャクジャナイ オイデヨ」

テツヲは迷ったが友人たちはまだ帰ってこないだろう。それまでの時間をフィニヨンと過ごすのも悪くない。

これもいい経験かもしれないとテツヲは行くことを承諾した。

 

 サイゴン川沿いに10分ほども歩くと繁華街の光は遠くなった。怪しげな影が蠢いていたがフィニヨンだと気付くと去っていった。

テツヲを客だと思っているのだろう。いや、客になってしまうかもしれない。そのほうが返って安全だとも思った。

さらに10分ほど行くと三階建てのカフェのある建物があった。建物前の広場に地元の若者たちがたむろしている。

テツヲの想像とはまるで違っていた。日本でいうとプレハブの安アパートのような建物だった。

電飾を施してはいるのだが色合いは陰気で薄暗く、日本人なら通りすがりに寄っていこうとは誰も思わないだろう異様さだった。

フィニヨンは一階のカフェに顔を出し、すぐにテツヲを三階へ案内した。鉄の外階段を上り、非常口風のドアを開けたすぐそこがフィニヨンの部屋だった。

騙されているのかもしれない。これが通常の営業なのかもしれないとテツヲは思ったが乗りかけた船だ。

メコンに漕ぎ出すかと変に韻を含んだような考えにひとり笑った。

部屋は思ったより広かったがなんとも殺風景だった。

壁はコンクリートにペンキを塗っているだけでそれが所々剥げ落ちて誰が描いたのかわからないへたくそな大きな絵が掛けられていた。

小さなベッドがありテレビが傍にあった。

「ココヨ イイヘヤデショ」

フィニヨンは言うがテツヲはなんと答えたらよいかわからず相槌だけを打った。

階下から音楽が聞こえてくる。聞いているとどうも日本のポップスのようだった。

「ニホンジン オオイヨ ウタッテアガッテクルヨ キット グエンノオキャクサン アナタ トモダチ キャクジャナイ」

フィニヨンは日本人に貰ったという名刺を見せてくれた。M商事、S商事、M物産など大手ばかりだった。

よくもこんなところに名刺を置いて行くものだとテツヲは呆気にとられた。

フィニヨンが買ってきたビールは来る途中に飲んでしまった。ウイスキーをと出してくれたのはなんとも言えぬ味の焼酎だったが飲んでいるうちに美味しく感じてきた。

フィニヨンも飲んでいる。この場に及んでもテツヲはどうしたものかと迷っていた。部屋着に替え裸体に近くなったフィニヨンは魅力的だった。

かわいいと思った。そして綺麗だとも思った。

出身はどこかと聞いたときにフィニヨンは途轍もなくいい考えに結びついたように表情を明るくした。

そしてテツヲに抱き付きトモダチと何度も言った。

 

ホテルに戻ってしばらくすると友人たちが今夜も酔っぱらって帰ってきた。すでに明け方近くだった。

フィニヨンの手配でバイクタクシーに乗ったのは午前二時頃だったろうか。

乗るときにフィニヨンがいくらかの金を渡し、着いたときにテツヲは五ドルを渡した。高いと思ったが仕方ない。安全がいちばんだった。

友人たちはテツヲがずっと眠っていると信じているから静かにしてくれていたが高揚した気持ちは全く眠気を寄せ付けていなかった。

 起きたのは昼近くだった。友人たちはまだ寝ている。こんな過ごし方はテツヲの性に合わなかった。

その日のうちにテツヲは別の安ホテルに部屋を移した。一人あたりにしても前のホテルよりも安くなったがバスタブがなかった。

シャワーとクーラーがあれば問題はなかった。夕方、街へ出た。フィニヨンを探している自分がおかしかった。

手持ちのお金ではあと二週間くらいはサイゴンにいることができそうだ。一日にホテル代を含めて日本円で3000円もあればそこそこ裕福に過ごせるのだ。

2000円でもやっていけそうだ。食事次第だった。

昨夜の河畔にはそれらしき影はなかった。ホテルに戻って読書でもしようと思った。売店でビールを買った。

6000ドンだった。街中は少し高い。昨夜フィニヨンは4本買ってきたのだ。不足分は彼女が支払ったのだろう。

それとも地元者の利で値切ったのだろうか。いずれにせよ疑う必要のない相手だと思った。

ビールよりも安いフォーガーを屋台で済ませチャンフンダオ像の下で煙草に火を着けた。

人だかりはオセロのような知らないゲームだった。賭けゲームなのだろう。熱気が伝わってくる。

ドンコイ通りは久しぶりだった。観光客が多くて、それに日本人に遭遇するからあまり行かなかった。

夜の通りはほかの通りに比べて華やかだった。子供が金をくれと纏わりついてくる。

少しくれてやるとさらに子供が増えるから振り切るしかなかった。

「テツヲ」

空耳かと思った。振り返ると人並みの中に背伸びしたフィニヨンが手を振っていた。今夜は化粧をしている。

ローライズのジーンズに腹を見せたシャツ姿はそれとなく分かってしまう。

「テツヲ アソブ?」

ヒールの高い靴だった。

「イヤ オカネガナインダ ゴメン」

いいのよとフィニヨンは言い、いつまでサイゴンにいるのかと訊ねた。

「アト イッシュウカンクライカナ」

「コンヤモ クル?ツキソウニナイシ」

フィニヨンの目に街の灯りが映っていた。今夜のドンコイ通りは人が多かった。たぶん土曜日なんだと思った。

サイゴンに来てから曜日が分からなくなっていた。日にちさえあやふやだった。

「アシタナラダメカナ?ビールカッテイク」

「ニチヨウハダメ ショクブツエンデ ママニアウノ オミセノオテツダイヨ」

「オミセ?」

「ソウ ショクブツエンノナカデ オミセシテイルノ オカシヤタバコヲウッテイル フォーモツクルヨ」

サイゴン動植物園のことだろう。入ったことはなかったが場所は知っている。

歩いて行けないことはないが一本通りを間違えればどこへ辿り着くやらわからない。どこもここも同じように見えてしまう郊外だった。

自分は何を考えているのだろうとテツヲは思いを振り切った。

「フィニヨン モウイチド キミトビールヲノミタイ サイゴンガワノホトリガイイ」

「イツ?」

日本の100円硬貨を持った男の子が両替してくれとテツヲにせがんでくる。日本人にチップとしてもらったのだろう。

ベトナムでは使えない。テツヲはポケットにあったしわくちゃの一万ドン札と交換した。

「アト 二千ドン」

子供のくせにレートを知っていやがる。

「なんだよこのガキ。邪魔すんなよ」

テツヲは要求通りの量になるかどうかわからなかったがポケットにあった小銭を全部渡した。

喜んで子供は走り去った。それ以上あったのだろう。

「ゲツヨウノヨルナラ」

テツヲは今夜の化粧しているフィニヨンを綺麗だと思った。昼間に会えばどこにでもいるベトナム女性かもしれなかった。

旅の空がそう感じさせているのだろうとテツヲは思いながらも胸の奥の何かが捩れ、苦い汁が胃袋の上のほうを刺激するのが分かった。

フィニヨンになぜ客が付かないのだろう。地元の人には高過ぎるだろうし、外国人にはなにか物足りないものがあるのかもしれない。

テツヲは自分がサイゴンにいる間は客が付かなければいいと身勝手にそう思い、願った。

 その夜、テツヲは絵を買った。F4ほどの小さな絵だった。店先にたくさん飾り置かれた中の一枚だった。

ベトナム女性の後ろ姿。一時間ほど前に別れたばかりのフィニヨンの後姿に似ていた。アオザイ姿は見たことがなかったがきっとこんな風だと思った。

これで残る滞在時間を短くしてしまったこをそのあと気付いたが手遅れだった。

 

 日本は雪の季節だ。帰ったら仕事を探さなくてはと思った。予定よりずいぶん長居してしまった。

何を得たのだろうか。何かを捨てられただろうか。この旅の最後にこんな切ない気持ちを味わうなんて思いも寄らなかった。

しかし僅か一度の夜、たった一度の夕暮れだった。黒い髪、輝く目、緩やかな頬、小さな背、すらりとした脚。

フィニヨンの悪いところを何一つ見ていない。お金を渡すべきだったのだろうか。渡せば彼女は受け取っただろうか。

トモダチ、トモダチと言う彼女は自分をどう思っているのだろうかとテツヲはどうかしてしまったなと省みながらも気持ちは治まらなかった。 

 バイクの大群は排気ガスを撒き散らして信号があろうがなかろうが関係なく不思議なくらいスムースに流れていた。

テツヲは三階建ての、あの建物を目指して歩いていた。フィニヨンに会いに行くのではなく、あの建物を明るい時間帯に見てみたいと思った。

あの夜の印象は昼間もそうなのだろうか。薄汚い安アパートのような建物。その前の広場にたむろするバイクタクシーの若者たち。

昼間はどのように見えるのだろうか。何も予定がないまま過ごしてきたテツヲだったが今は小さな目的でも必要だった。

目的のない日々は時間の流れが遅すぎるのだ。そろそろ潮時なのだと思った。

歩けば三十分ほどの距離だったはずだ。サイゴン川沿いに記憶を辿りながら歩いた。

こんな風景だったかと思った。歩いても歩いても記憶のそれは見つからなかった。単純に川沿いを歩いただけだと思っていたがそうではなかったのかもしれない。

もう三十分以上は歩いた。何一つ見付けられないし、どれもこれもが記憶のもののようにも思えたのだった。

結局二時間ほども探したがあの三階建てを見付けられなかった。戻りながらも辺りを伺ったが分からなかった。

もしかしてどこかで橋を渡ったのだろうか。しかし川向こうまで探し続ける気力はなかった。充分に歩いた。テツヲはそれでも満足していた。

 徐々に南国の、悪く言えば退廃的な、更に悪く言えばその日暮らし、その時暮らしが身についてしまったように感じたが嫌ではなかった。

昭和の高度成長期の田舎の子供は食うものさえあれば毎日が楽しかったのだ。

 もう日本へ帰ることを決めて便を予約したのは翌日の朝だった。そしてその夜、サイゴン川の畔でフィニヨンに会う約束なのだ。

サイゴンの雑踏を眺められるのは明日までだった。何のためにサイゴンへ来たのだったか。二か月ほど前の気持ちを思い出すことができなかった。

もうすぐ時間の流れは変わる。何もしないでいることは許されない環境に帰るのだ。

何を捨て何を拾ったのか、結局わからないままだが今夜結論付けられるようにテツヲは思った。

 夕暮れのサイゴン川がいくらか温度を下げた風は気持ちよかった。

チャンフンダオの銅像前の広場で何年も前に日本でも流行ったベトナムの歌をギターを弾きながら唄っている。

オセロのような賭けゲームに人が集っている。毎夜同じことが繰り返されているのだ。日本はもうすっかり冬なんだなと身体に染みついている景色を想った。

ここではまだ、いやいつも熱風が吹いている。

 「テツヲ ナニシテイタノ」

フィニヨンは植物園の店が全然流行っていないことを話した。

お茶だけを飲みに来て半日も過ごすおばあさんのこと、近くにロッテリアができて園内でフォーが売れなくなったらしいこと。

ママのお手伝いと言っても何も手伝うことがなくて一週間の出来事を話しているだけだと顔を曇らせていた。

「ニホンハユウフクナンデショ テツヲモカエレバイッパイオカネアルンデショ ニホンヘイッテミタイナ」

生温いビールは不味かったがフィニヨンの持ってきたフランスパンのサンドイッチは美味しかった。

停めたバイクの上で若者カップルがいちゃついていた。なぜバイクの上なのかわからなかったがあちこちで同じようにシルエットが動いていた。

バイクを持つ男のステイタスなのだろう。

「フィニヨン ボクハアシタニホンヘカエルコトニシタヨ モウ ジェットハヨヤクシタ」

「エッ シリアッタバカリナノニ ナゼ ドウニカナラナイノ ワタシ アナタトモットイッショニイタイ」

「オカネガモウナクナッタシ ニホンヘカエッテシゴトシナイトネ」

「ワタシ アナタノコトガスキニナッテル」

「ボクモ フィニヨンノコトガスキダ」

フィニヨンは何度も帰るのをもっと先にしろと言った。せめてあと一週間はサイゴンにいて欲しいと懇願した。テツヲの気持ちは揺らいでいた。

「ニホンヘイクカイ」

「イキタイ テツヲノクニヘイキタイ」

「ニホンハサムイゾ」

「シッテル テレビデミタコトアルカラ」

初めてキスをした。いや、二度目三度目だったが初めてだった。フィニヨンの唇は柔らかかった。

日本では雪が降るころだろう。一緒に行くかと言ったが叶うはずはなかった。

「ユキガミタイ マッシロナケシキ・・・」

テツヲはこの気温のサイゴンで雪など想像もできなかった。

「フィニヨン コンヤデオワカレダヨ キミトシリアッテヨカッタ」

「マタクルヨネ」

テツヲは何も言わずフィニヨンを抱きしめた。

「キミノアオザイヲミタカッタナ」

「ミセル ミセルヨ ミテヨ アノヘヤヘイコウ」

夜は何かを隠して何かを見せてくれる。不安だったり、悲しみだったり。希望は極まれのことだ。

しかし愛は深まるばかりだった。タクシーはわずかな時間で着いた。橋は渡らなかった。

ずっと川沿いだと思っていた道はいつの間にか左折していた。

テツヲが今までの人生で学んだことは、夜に辿り着いた結論を実行してはいけないということだった。

しかし、いま夜になったばかりの三階建てのカフェの、どこか現実離れして怪しい電飾も当たり前のようにテツヲの目に映っている

灯りは心を揺らせるのに充分なものだった。

広場に残り、ひとり三階へ鉄の外階段を音を立てて上ったフィニヨンを待った。バイクタクシーの若者が何か話しかけて来たがベトナム語は分からなかった。

タイランドで作られたホンダカブは日本で見掛けるそれとは別物だった。アニメのヒーローが乗っていそうな角張ったフェンダーが伸びていた。

三階の踊り場のドアが開いた。バイクタクシーの若者たちも見上げている。着ている服の長い裾が熱風にそよいでいる影が見える。

誰かがバイクのヘッドランプを向けた。フィニヨンが降りてくる。フィニヨンは途中で止まりくるりと身体を廻した。

少し遅れて裾が翻った。スリットの分だけ大きく揺らいだ。

薄い青色、スラックスは白い。長い首に詰められた襟、隆起した胸に沿って流れるように身体張り付いている。

腰を強調するかのように切れた長いスリット。なんて綺麗なんだ。テツヲは呆然と見上げていた。

サイゴンの夜に風花を見たように思った。きらきらと舞いながら落ちてくる雪の結晶。これが大人のアオザイなんだと知った。

街で見掛ける女学生の白いアオザイも清楚でいいと思っていたが、フィニヨンの青いアオザイ姿は比ではなかった。

 テツヲは自分を止める術を見失っていた。自分を翻弄するのは自分の心にある人生への蟠りなのだ。

世間に作り育まれ、多くの人が正しいと無条件で受け入れる無意識下の意識なのだ。フィニヨンが降りて来た。そっと腰を抱いた。

シルクを通して指先に感じる身体は直接皮膚に触れるより刺激的だった。

若者が乗れと言う。金は要らないという。テツヲはタイホンダの後部座席に跨り、アオザイの裾を翻して先を行くフィニヨンを追った。

サイゴン川に掛かる橋の上で止まり、川面を行き来する電飾の屋形船を遠くに見た。川風が涼しかった。

若者にチップを渡そうとしたが、いらないと受け取らなかった。

若者はテツヲに握手を求めた。フィニヨンにも握手を求め、何やら言って笑った。

「ありがとう」

テツヲは日本語でそう言った。

夜の結論を実行するのも悪くはないと思った。

 

おわり

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風花(かざはな)2016.1.23を改題

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